白鷺館アニメ棟

放送中のアニメ作品について、アニメファン歴50年以上という鷺が軽いツッコミを交えて与太話

屋根裏のラジャー

 以下の評には一部ネタバレも含むので要注意。事前に変な予備知識を持ちたくない人は、鑑賞後にご覧ください。

 

 

アマンダの架空の友達「イマジナリー」のラジャー

 

 

架空の友達「イマジナリー」の世界

 ラジャーは父を亡くした少女アマンダが産み出した架空の友達「イマジナリー」だった。ラジャーはいつも想像力豊かなアマンダの空想の世界で彼女と共に冒険をしていた。イマジナリーは子供の想像力が産み出す架空の存在であるために、他の人には見えないし、子供が大人になると忘れられ、そうなると消え去る運命にある存在だった。

 そんなラジャーの元にやって来たのがミスター・バンティングという謎の人物。ラジャーに目をつけたらしい彼は、実はイマジナリーを食べてしまうことで今まで長い間を生きてきた人物だった。彼に狙われて食べられそうになったラジャーを助けてアマンダは逃げ出すが、その時に車にひかれてしまう。

 1人になったラジャーは自分の身体が消えかけているのに気付く。もしかしてアマンダは死んでしまったのだろうか、もう自分もこのまま消えるしかないんだろうかと思ったラジャーの前にオッドアイで言葉を喋る謎の猫・ジンザンが現れる。「このまま消えるのが嫌ならついてこい」というジンザンに案内されたのはイマジナリー達が暮らす街だった。

 

 

人物にもう一歩の切り込みが欲しいという感が募る

 そうしてラジャーの新たな冒険が始まり、最終的には意識不明になっていたアマンダを助けに現実世界に再び戻るというようなことも行うのであるが、そのような冒険活劇的な描写は小気味が良くて映像的にも見所もある。

 ただ正直なところ、「なぜそうなるのか」「もう少し描き方はないのか」など細かい不満が見ている内に次々と沸き上がってくるのが私の本音であった。まずストーリー展開としてはエミリの消失がストーリーとしてあまり生きていないのが気にかかる。彼女が唐突にあまりにも呆気なく消失し、その存在さえも忘れ去られてしまうというのは、この世界の残酷さをラジャーに突きつけるわけであるが、その割にはあまりにそのことが後に効いてきていない。あえてエミリの消失に意味をつけるなら、それはミスター・バンティングの恐ろしさと、彼に対する憎悪を掻き立てる意味であるが、ラジャーは彼を恐れてはいるが特に憎悪を感じている様子はない。

 そしてやはり一番不満なのがそのミスター・バンティングの描き方である。結局のところ彼の位置づけは単純明快な悪役であり、嫌悪すべき猟奇的な殺人鬼的な描き方になっているのであるが、それがどうにもこうにも浅く感じられて仕方ないのである。サラッと触れられていた彼の経緯に関しては、自身のイマジナリーと別れることを拒んだ彼は、他のイマジナリーを食べて体内に取り込むことで今日まで生きながらえてきたとのことであるが、そうなるに至った経緯、そこに落ち込んでしまった彼自身の一種の哀しさのようなものも描かれればもっと深い作品となり、そこには幼児期の夢と大人になることの選択というテーマ的なものが浮かび上がらせられるのではと思えるのである。

 

 

もう少し明確なテーマを打ち出して欲しかった

 本作でのラストは結局は怪物ミスター・バンティングが自滅の形で消滅し、目出度し目出度しと言う印象なのだが、私ならそこに彼自身の逡巡、延々と重ねてきたモラトリアムからの脱出というような救済要素を付け加えて彼自身のキャラを深め、そして振り返るとラジャーはどうするのかという話に持っていったと思う。

 と言うのも、いずれはアマンダもラジャーから卒業する時が来るはずである。本作ではアマンダが「最後の冒険」云々というようなことを言っていたことから、これでアマンダとラジャーが別れることになる暗示があるが、極めて不明確である。私ならここは明確にラジャーがアマンダの成長のためにあえて別れを選び、最後に「だけど時々は僕のことを思い出してくれたら嬉しいな」と語らせ、アマンダが子供から大人へと成長していく物語にするところなのだが。結局はそういうテーマ性が薄いがために、終わってみたらなんだったんだろうというモヤモヤした不快感が残ってしまうのである。

 総じて言うと決して悪い映画ではないのである。個々人の行動原理などに無理はなく、作画や演出なども総じて安定していて妥当である。ただそれが故にもう一段階が欲しいという不満を逆に感じてしまうということである。これは以前に米林宏昌監督の「アリエッティ」や「マーニー」にも感じたものと同じであるが、本作は彼の作品でないにも関わらず、同じような感想を抱いてしまうのはどうにも不思議である。