白鷺館アニメ棟

放送中のアニメ作品について、アニメファン歴50年以上という鷺が軽いツッコミを交えて与太話

アリスとテレスのまぼろし工場

変化のない奇妙な世界に閉じ込められた少年達

 製鉄所の城下町であるみつけ市。そこでは今日もいつもと変わらない日常が送られていた。そう「いつもと変わらない」。いつまでも変わらない・・・。

     
原作小説が出ているようです

 主人公の菊入正宗は中学3年生。本来ならそろそろ将来の希望などを考えないといけない頃だったが、正宗は全くそんな気になれなかった。それはこの世界では変化が許されない。いつまで経っても未来なんて訪れない世界だったから。

 この世界はかつて製鉄所が大爆発事故を起こした時に、外部の世界から切り離された完全に孤立した状態になっていた。これはみつけ神社のご神体である山を製鉄のために切り崩してきたことに対する神の罰であり、町が丸ごと一種の神隠し状態にあっているのだとされた。いずれ神の怒りが解けて現実世界と接続された時に矛盾が生じないように、変化を持たないことが重要とされたからである。

 夏のない時間の流れも曖昧な世界で漠然と毎日を送っていた正宗だが、ある日、以前から何とはなく嫌っていた少女・佐上睦美に誘われる形で製鉄所に忍び込む。そこで正宗はどことなく睦美に似た面影を持つ、野生児のような少女五実に出会うこととなる。そしてこれが正宗がこの世界の秘密に迫っていくきっかけとなる。

 と大体の序盤の展開はこのようなものである。以降はネタバレを含むので注意されたい。

 

 

 

 

 

 

世界の謎に迫っていくと共に観客を巻き込む展開は上手いが

 五実と接触したことで現れた亀裂の向こうに正宗が現実世界を垣間見たことから、この世界は単に現実世界と切り離された世界と言うよりも、一種の幻のようなものであり、いつ崩壊するか分からない不安定なものであり、さらには将来的に現実世界に戻れるという望みもないことが分かる。

 そしてもう一つの最重要な謎は五実は実は未来の正宗と睦美の娘であり、現実世界から製鉄所の電車に乗って迷い込んできた異質な存在だったということ。今回の現象に一番詳しいと自称する佐上は彼女は神の怒りを鎮めてこの世界を維持するための神の女だと考えているが、それには明らかに根拠がなく、佐上の思い込みであるように思われる。

 淡々と続く日常の中で正宗が睦美に対する自分の気持ちに気付いていく過程など、いわゆる思春期の若者たちの群像劇としては悪くない。また作品全体も終盤に山場を持ってくる構成になっていて、自然と観客を巻き込んでいく計算がされており、エンターティーメントとしてのレベルは岡田麿里監督の前作「さよならの朝に約束の花をかざろう」よりはアップしているのは間違いない。ただ「さよならの」では随所に渡って「なんでそうなる?」という残念部分は多かったのだが、本作でも勢いで押しきって誤魔化した感があるが、未消化の残念な部分はいくらか見受けられる。

 

 

随所に残念感が滲んでしまうのが本音

 例えばこの世界がまぼろしでいつかは消滅すると知らされての、住民達の開き直ったような淡々とした対応なんかは「いや、人間ってそんなもんじゃないだろう」という疑問を抱くし、キャラクターにしても例えば善人ではないのは確かだが、かと言って悪人というわけでもなく、結局は変人を飛び越えて頭がおかしいキャラに終始してしまった佐上とか、明らかに納得しがたいキャラも少なくない。

 また話の設定自体にも首をかしげるところがある。最後、政宗と睦美は必死で五美を元の世界に戻すのであるが、彼女がこちらの世界にやって来た時にはもっと幼女で、こちらの世界で野生児的に成長してしまっており、この状態の彼女を元の世界に戻して適応出来るのか。また時間進行はこちらの世界と現実世界でどうなっているのかなどが適当に誤魔化した感が強い。恐らく岡田監督はそんな細かいところまではあえて詰めずに話を展開しているのだろうと思うが、そのようなある種の「雑さ」のせいでストーリーの納得性が落ちてしまい、結局はご都合主義のファンタジーで終わった感がある。

 政宗にしても、この世界で睦美を愛し続けるということを決意したのは良いが、もうすぐ消滅する可能性の高い世界でそうしたからって何の意味がと言いたくなるところがある。この辺りが現実世界にも何らかのフィードバックがあるような展開になっていたら、もう少し話に納得性が出るし、テーマのようなものも見えてくるのだが、その辺りの曖昧さは何とも残念感がある。

 

 

若者の日常のモヤモヤの描きかたは上手いが、そこからのもう一歩が欲しい

 十代ぐらいの何となくモヤモヤした不安感。変化のない日常に嫌悪を感じつつも、一方で変化に対する恐怖のようなものも併せ持っている矛盾した感覚。また十代の恋愛特有の屈折した複雑さなどといった、いわゆる十代の少年少女群像の描き方はまずまず上手いものを感じるのだが、それがそこから話として深まらないもどかしさのようなものがつきまとってしまう。

 言えるのは悪い映画ではない。ただやはり見終わった後に「結局何だったんだ」という空疎感を抱いてしまい、それがどことなく残念感につながるというのが本作品に対しての正直な感想である。監督が描きたいものが、単に十代のウダウダだけだというならそれはそれでも良いんだが、結構凝った作りだけにどうしてもこちらとしてはそれ以上を期待してしまい、それが故に肩透かしを食らった気分になってしまうのである。

 なお結局最後まで何が「アリスとテレス」なのかは分からず仕舞いである。アリスもテレスも劇中に登場しないことから、これは要するに「アリストテレス」なのではとも思ったのだが、古代ギリシアの哲学者との接点はさらにない。実はこのタイトルが本作の一番の謎だったりする。