四半世紀に渡る話題作がついに完結
エヴァンゲリオン完結版と銘打つシン・エヴァンゲリオンが今週になって公開されることとなった。正直なところこのまま有耶無耶になるのではないかという気もしていたから意外な気もする。考えれば大本のテレビシリーズが放送されたのが1995年、当時の私はちょうどミサト世代だった。アニメ作品がターゲットとしている視聴者層と主人公の年齢を合わせるというのはよくあることだが、そう言う意味でこの作品はシンジ達の14才とミサト達のアラサーを両ターゲットにしていたことが分かる。
ご多分に漏れず私もこの作品に人生が影響を受けそうなぐらいにドップリとはまったのだが、作品自体がわけの分からんラストでグチャグチャになった上に、それを解消するべく制作されたはずの劇場版がそれにさらに輪をかけたグチャグチャだったせいで、作品ファンは熱狂しつつも満たされない気持ちをずっと引きずってきており(今となってはあのグチャグチャは明らかに庵野が逃げたのだと感じている)、真の結論が長年待たれていたわけでもある。にしても26年は長かった・・・。
ちなみに今回の映画で本当に結論がつくのかということに懸念を持っているファンも少なくなく(特に前作が予想外の明後日の方向を向いていただけに)、それが劇場に出かけることを躊躇わせているなんて話も耳にする。
詳細を記せばネタバレになるので、ここでは伏せるが、最重要なことを言っておけば、「本作でエヴァンゲリオンは完結である」ということである。さらに私見を含めれば「予想外に綺麗にまとめた」と言えると思う。
なお劇場は上映回数を増やしていたわりには結構な入りで、未だにこの作品人気は衰えていないことを感じさせた。また客層も私と同年代が主力となるかと思っていたのだが、案に反して最初のテレビシリーズ放送をリアルタイムでは知らないであろう層が中心であった。この作品のファン層も入れ替わりつつあるのを感じずにはいられなかった。
以下に本作については私なりの感想や解説を記すが、明らかにネタバレとなるので、劇場版を予備知識のない新鮮な気持ちで見たい者は、鑑賞後に読むことをお勧めする。
シン・エヴァンゲリオン劇場版
意表を突かれる世界から始まる
前作のラストがかなりグチャグチャしたのであるが、本作最初はそれをまるっきりリセットするかのような全く異なる場面が登場する。それは先のニアサードインパクト(シンジが引き起こしたとされるもの)で生き残った人々の集落である。しかしここの人々が修羅場をくぐり抜けたと感じられないぐらい、農業中心の妙に牧歌的でのどかな生活を送っている。ここだけ見ればまるでジブリ作品のような妙な違和感さえある。
ここで大人に成長したトウジとケンスケが登場するのは、私のようなオールドファンには涙が出そうになるシーン。しかもヒカリと結婚したトウジは相変わらずやや暑苦しいところがありながらも、集落の中で医師として必死に働いているし、ケンスケはそのサバイバル技術などを活かしてなんでも屋として集落を守っている。また少し悟ったところのあるような様子はかつての加持のポジションでもある。彼らの成長は泣けそうになる。
ここに連れてこられたシンジは半ば放心状態の死んでいるとも生きているとも言えない状態。アスカ言うところの「すべてを自分の責任と抱え込んで浸っている」状態。また「生きる気力もないけど、死ぬ気もない」というところの完全虚脱のグダグダ状態。まあある意味でシンジのデフォルトのような気さえする状態である。
他人との交流の中で変化していく姿を描く
ここで起こる予想外のことは綾波コピーの成長。人間界の常識も当たり前の感情も全く持ち合わせていなかった彼女が、集落の人々とふれあううちに段々と人として進化していき、他者を慈しむ心などを学んでいく。そしてその心でシンジに接することで徐々にシンジの心もほぐれてくる。
そしてようやく立ち上がり始めたシンジはケンスケやトウジと行動を共にすることで、現在の状況を把握していくことになる。そしてこの集落も際どい瀬戸際のバランスの中に残存していることを知るが、同時にシンジは「土の匂い」という言葉を象徴的に用いているが、ここでの生活と自然な人々の交流に安らぎを感じている。
しかし綾波コピーは所詮はネルフの中でしか生きられない悲しい宿命を持っていた。彼女はいよいよ自身の身体に限界が来たことを悟ると、シンジにゲンドウのDATを渡して、ここで生きたかったというようなことを言い残して砕け散る。シンジにとっては悲しい衝撃であったが、これがシンジを立ち上がらせる最後の一押しとなる。これが自閉的で頑なだったシンジに一つの成長を促すことになり、ひいては再びミサト達との合流を決意させることになる。
「成長」が一つの大きなキーワード
という辺りが物語前半の展開なのだが、例によって細かい描写や意外な展開が多々ある。大人となったトウジやケンスケの登場も意表を突いていたが、アスカがどうやらケンスケと深い仲になっていそうだったことにも驚かされた。アスカが入浴で裸になっているところにシンジとケンスケが帰ってくるシーンがあるが、この状況にアスカもケンスケも全く驚いた様子を見せなかったところを見ると、この二人が既にそういう関係であることを匂わせている。シンジは子供のままこの時代を迎えてしまったのだが、アスカはその間に14年という月日を積み重ねていたというズレを感じさせるところでもある。アスカがシンジのことをしきりに「子供」というのは成長していないシンジに対する苛立ちでもある。
また綾波コピーが人同士の挨拶などの意味が全く分からず、その度に「これは?」とヒカルに聞く様子はまさに子供のそれそのものであったし、それに対してその都度「再び会えるようにというおまじない」とうように説明していくのは母親そのものの姿だった。ある意味では全く幼児に近い綾波コピーが、人として成長していく過程そのものであったとも言える。ここで彼女は「成長」そのものを演じたわけである。
このように前半では「成長」が一つのキーワードになっている。これが後半になってシンジが「君は成長したんだ」と言われることにつながってくる。
いよいよ始動するネルフの陰謀と正面衝突
後半はいよいよ始まるネルフによるフォースインパクトのための画策と、それを実力で阻止しようとするミサト達の戦いとなる。非常に素早い目まぐるしシーンがコロコロと変わって画面から目を離せないのはこの作品の真骨頂。また例によって様々な思わせぶりな台詞も飛び交うが、実際のところはそういうのはすべて単に庵野が表現したかったディテールであって、実のところは本作の核心にはあまり関係はない。
本作の核心はゲンドウは一体何をしたかったのか、そしてシンジはそれに対してどう相対するかである。主人公のシンジは、フォースインパクト阻止のためのミサト達の奮戦やアスカの捨て身の行動も功を奏さず万事休すと思われたところで、満を持して登場、そしてここで「初号機に乗る」と明言する。この時のシンジの明らかに悟りきった表情。今までシンジは父と相対することを避け続けてきたのだが、この時に父と正面から相対することを決意したのである。
全てはゲンドウのヘタレが原因だった
結局はフォースインパクトはゲンドウの弱さの表れであった。ゲンドウと相対したシンジは最初は力で戦おうとするが、そのことに意味がないことを悟ったことで「父さんのことを知りたい」とゲンドウの内面に入っていくのである。ここでゲンドウが初めて彼自身の本心を語る。
つまりはずっと孤独が好きで、人との関わりを嫌っていてそういうのが苦手な典型的なコミュ障だったゲンドウが、ユイと出会ったことで心境に変化が生じると共に、ユイを失ったことで初めてそれまで感じたことのない強烈な孤独感を味わうことになったのだった。そのためにすべてを犠牲にしてでもユイを探したいとの思いで、人類を境界のない一つの生命体のようなものにすることでユイと再び会うという、まあ極めてはた迷惑な計画を実行しようとしていたことになる。
要はこの作品一番のヘタレは実はゲンドウだったわけなのだが、今までゲンドウはそれを認めることが出来なかった。しかしシンジとの語り合いの中で初めて自身の弱さと対面することになったのだった。ここでゲンドウも成長というか気づきをなしていることになる。さらにはここで今まで意図的にゲンドウが避けていた、父と子の愛情というものも戸惑いながら認識したのだった。ゲンドウはゲンドウで、自分は人の父になることが出来るのかという迷いがあったのである。全てはゲンドウの対人関係における不器用さから生じていた。
成長したシンジが新たな世界を構築する
これに対してシンジは個々人が独立した存在として生きる世界をエヴァが存在しない中で実現することを主張する。今まで対人関係にやはりストレスがあり、自閉的なシンジがまさに成長したことを感じさせる話であった。人間関係に強度なストレスを感じるタイプであったシンジが、他者と関わり合いながら生きていく世界を選んだことになる。
そして最終的にはシンジの意志が世界を再編して大団円になるわけであるが、いささかラストは夢オチ感もなくもないが、ここまでもつれた話を納得できる綺麗な形で終了するにはこれしかなかったろうと感じるし、恐らく私が考えたとしてもこの線になっただろうと言える決着になっている。
ゲンドウとシンジの関係は庵野の心境の変化も示しているか
後半の主役はシンジであって実はゲンドウでもあるわけである。そしてゲンドウの行動はまさに庵野自身の心情を反映させていることを感じる。従来は庵野の心情は明らかにシンジに投影されていて、それが「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ」の現実逃避的で自閉的なシンジの性格に反映されていた。しかし庵野も私生活で成功もすれば結婚もして、前々作辺りからどことなく作品からリア充臭が感じられるようになっていた。前作では再び逃避に入った感があったが、どうも過去の己をゲンドウに投影して、結局は克服するべき対象として昇華したという感が強い。後半のシンジはやたらに「成長した」と言われるシーンが多いが、これこそはまさに庵野自身の心境の変化とも感じられる。結局は成長した若者が、臆病な老人を駆逐したわけである。
と言うわけで、相変わらず正直なところ結構理屈っぽい作品である。そしてそれらはこの作品と共に年代を過ごしてこの年齢になった私にはことごとく突き刺さってくる部分がある。私はこの作品を見終わったとき、思わず「成長したな、庵野」という言葉が出て来てしまったが、果たして今回観客の中心となっていた十代層にはどうだろうか? ちなみに私の隣席に座っていた十代らしき若者は途中から完全に寝落ちしていた。
なお新劇場版としての細かい設定の変更などもあったが、本作で初めて惣流・アスカ・ラングレーが式波・アスカ・ラングレーとなった理由も理解できた。本作のアスカはテレビ版と違い、綾波同様仕組まれた子供であったという過去を背負っていたのである。だから綾波に対して式波だったということのようだ。それに絡めてアスカの孤独とその救済も本作では描かれていた。何やら全てのキャラの救済に走ったという感じの作品であり、その辺りも最終回たる所以。なおアスカがケンスケの方に向かったこともあり、シンジが最終的にマリと引っ付くというのはいささか唐突な印象も受けたが、まああっても良いハッピーエンドか。綾波とカヲルの組み合わせの方がもっと驚いたし(笑)。